石井貴士アナウンススクールは、 普通の人が、「新人アナウンサー研修」を受けることで、 話し方が上手になっていく、あなたのための「話し方教室」です。

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Teacher’s Profile講師紹介

作家・(株)ココロ・シンデレラ 代表取締役
1973年愛知県名古屋市生まれ。
私立海城高校卒。代々木ゼミナール模試全国1位、
Z会慶応大学模試全国1位を獲得し、
慶應義塾大学経済学部に合格。

ほとんど人と話したことがないという状態から、テレビ局のアナウンサー試験に合格。
アナウンサー在職中に、
「アナウンサーを辞めて、ゼロからスタートしてビッグになったら、多くの人を勇気づけられるはず!」
と思い、本当に局アナから無職に。
その後、世界一周旅行に出発し、27カ国を旅する。
帰国後、日本メンタルヘルス協会で「心理カウンセラー資格」を取得。
2003年に、株式会社ココロ・シンデレラを起業。

『本当に頭がよくなる 1分間勉強法』(中経出版)は57万部を突破し、
年間ベストセラー1位を獲得。(2009年 ビジネス書 日販調べ)
現在、著作は合計で70冊。累計200万部を突破するベストセラー作家になっている。

人と話したことがなかった私が、どうしてアナウンサーになれたのか。

人と話したことがない状態からのスタートでも、話し上手になることはできる。

中学・高校・浪人と、人と話さずに生きてきました。
というのも、「勉強して、東大・慶応・早稲田に行くことこそ全て。勉強が優先順位1位であって、他のことは全て切り捨てる」と決めていたからです。
私が受験勉強をしようと決意したのは、中学1年の時でした。
小学校から中学校に上がり、「女の子にモテたい」と思ったのがきっかけです。
モテている周囲の男子を見渡すと、野球部のエースだったり、音楽が得意だったり、ルックスが良かったりと、一芸に秀でている人がモテていると感じました。
そこで、自分という人間を客観的に分析したところ、勉強もダメ、運動もダメ、音楽もダメ、ルックスも取り立てて良いわけでもないことに、気づいてしまったのです。

「先天的な取り柄が、自分にはない。ならば、後天的に取り柄を作って行くしかない。
そうしないと、一生、普通の人と同じか、それ以下の人生になってしまう」
そう考えました。

運動に関しては、走るのが遅すぎるということもあり、これ からプロ野球選手にもテニスプレイヤーにも、絶対になれないとわかりました。
音楽も、音符さえ読めないし、歌も下手なので無理に決まっています。
ルックスも取り立てていいわけでもないので、芸能人になるのも無理だなと、消去法で人生を考えて行った時に、こう考えたのです。
「そうだ。勉強ならば、努力次第でなんとかなるはずだ。生まれつき、人より頭がいいとは言えないが、人の2倍、3倍と努力していけば、きっと逆転できるはずだ。
運動のしすぎで骨折することはあっても、勉強のしすぎで怪我をすることはないのだから、コツコツ努力すれば、自分でも勝てるはずだ」
そう悟ったのです。

「生まれつき、人よりも頭がいい方ではない。小 学校の成績も良くない」というところからのスタートでした。
なので、人と話している時間は無駄だと割り切り、なるべく友達も作らないようにしました。
親にも、「友達から電話がかかってきたら、切ってくれ」と言っていました。
宅配便の人と話す時間も無駄なので、「チャイムがなっても出ない」ということを習慣にして、家では、ずっと机の前に座っていました。
そこまで頑張ったにもかかわらず、高校受験では、第一志望の慶応大学の付属高校に落ちました。
しかも、学力試験は受かっていながら、2次試験の「面接」で落ちたのです。
「よほどコミュニケーション能力が低くない限り合格する」と言われていたにもかかわらず、です。
1次試験(学力試験)の合格者が700人で、2次試験(面接)で690人が合格するのが、慶応高校です。
毎年、面接では10人しか落ちないと言われているにもかかわらず、その10人に入ったのが私でした。
コミュニケーション能力がなさすぎて、高校受験で落ちたのです。
いかに、人と話すのが苦手だったか、おわかりいただけたらと思います。

結局、面接がなかった海城高校に進学して、また、人と話さない3年間を送ったのですが、大学に合格することができずに、浪人が決定しました。
浪人中も、友達を作らずに勉強をして、やっと、慶應大学経済学部に合格することができました。
とは言え、補欠Gでの合格でした。
その年は、補欠A~Iまで発表されて、Gまでが繰り上がりで合格になったので、まさにビリッケツでの合格が私でした。

「慶応大学に入れば、モテモテの人生が待っているはずだ」と思ったら、そうではありませんでした。
男友達さえ作らずに生きていたのですから、女の子と話せるはずもありません。
大学に入って、最初にデートをした女性からは、こう言われて、フラれました。
「だって、タカシくんって、世界史の話しか、しないんだもん!」
「え? ピョートル大帝の南下政策に興味があったりしないの? イスラム帝国の成り立ちとか、そういう話しかできないんだけど」
「メンズノンノとか、見たりしないの? 東京ウォーカーとか、読んだりしないの?
今時の話ができないなんて、タカシくんと付き合ってもつまらないよ!」
と言われたのです。

ショックでした。
中学・高校・浪人と、いつかモテるためにと思って、勉強だけをして、人と話さずに生きてきたのに、
その結果が、「モテるどころか、女性と話すことさえできない男」だったのです。
伊藤の英文解釈教室や、実況中継シリーズといった参考書は、いつも持ち歩いていたのですが、
メンズノンノも東京ウォーカーも、手に取ったことさえなかったのです。

白百合女子大学と提携しているテニスサークルに入ったものの、すぐにやめました。
カラオケに行った時に、「和田アキ子って誰?」と聞いて、ドン引 きされて、モテないキャラが確定してしまったからです。
テレビも見ないで勉強してきたので、芸能人の名前も知りません。
何を話そうにも、話題もゼロという状態でした。

「このままだと、一生モテない人生になってしまう。いや、それどころか、人と話ができなさすぎて、このままでは就職だってできない。
さすがに、それは困る。そうだ。ショック療法がいいに違いない。人前に出るために、演劇サークルに入って、役者をやろう」
そう思い、大学2年から演劇サークルに所属しました。
ですが、結局、話すのは下手なままで、セリフが多い役は、もらえませんでした。

あるお芝居では、隣人の役でした。
ドアをノ ックされて、「違いますよ」というだけのセリフのために、何ヶ月も稽古をしたこともあります。
人前に出るリハビリとはいえ、「違いますよ」というセリフだけなのですから、「一体自分は何をしているんだろう」という気持ちでいっぱいでした。
そんな中、人生を変える事件が起きたのです。

大学2年のクリスマス。逸見政孝アナウンサーの死をきっかけに、
アナウンサーを目指す。

12月25日。クリスマスの夜の出来事でした。
「逸見政孝アナウンサー、がんのため、都内の病院にて逝去」というニュース速報が流れたのです。

このニュース速報を見て、自分が逸見アナウンサーに憧れていたことに、気づきました。
逸見アナウンサーは、高校3年の時に、彼女にフラれたことがきっかけで、「絶対にテレビに出て見返してやる」と一念発起して、早稲田大学の演劇科に合格。
その後、4年間で関西弁を克服して、フジテレビのアナウンサー試験に合格したという経歴の持ち主でした。

私自身、「モテない人生から、慶応大学に合格して、今まで自分に見向きもしなかった女性たちを見返したい」という気持ちもあり、勉強をしていました。
逸見アナウンサーに自分を重ね合わせて、「努力すれば、大学に合格することもできるんだ」と頑張ってきたわけです。
逸見アナウンサーが亡くなった時に初めて、男として、彼に憧れている自分に気づいたのです。

「いつも私を勇気付けて くれていた逸見さんが亡くなってしまった。ならば、自分がアナウンサーになって、多くの人を勇気付ける立場になりたい。逸見さんが関西弁を克服してアナウンサーになったのであれば、私も人と話したことがない状態からアナウンサーになれば、多くの人を勇気付けられる自分になれるはずだ」と考えたのです。

一晩なき濡らした翌日の12月26日に、アナウンス学校のパンフレットを片っ端から取り寄せて、1月10日から通えるアナウンス学校に通うことに決めました。

とはいえやはり、周囲の反応は、冷ややかでした。
「石井がアナウンサーだって? バカも休み休み言えよ。アナウンサーは、明るい人だったり、友達が多かったり、みんなの人気者だ ったりする奴が、なるんだろう?
石井は性格は暗いし、友達もいないし、誰からも人気になったこともない。
お前がアナウンサーになれるわけがないだろう」と大学の友人からは言われました。
大学の先輩からも、「石井はアナウンサー以外なら、なれるんじゃないのか。努力家なんだから。人と話すこと以外の職業だったら、石井は何にでもなれるはずだよ」と、もっともなアドバイスをされました。

アナウンサーになるといったときの否定的な反応は、友人からだけではありませんでした。
「絶対に無理だ」と断言したのが、ほかならぬ私の母です。
「あなたがアナウンサー? なれるわけがないじゃないの。人と話したことあるの? ないでしょ? 友 達いたことあるの? ないでしょ? テレビを見たことあるの? ないでしょ? スポーツを見たことあるの? ないでしょ? 芸能人の名前だって知らないじゃないの。どこをどう見たら、あなたがアナウンサーになれるっていうの?」
私という人間を一番近くで、生まれた時から見ていた母親から、「絶対に無理だ」という太鼓判を押されました。
「アナウンススクールの学費を出して欲しい」と掛け合ったのですが、「お金をドブに捨てるようなものよ」と言われ、ノータイムで却下されました。
さすが、サラリーマン家庭を切り盛りしてきた母親です。
無駄なものには、一切お金を使わないという考えが徹底されていました。

結局、子供の頃からためていたお 年玉を使って、アナウンススクールに通う資金に充てました。
この本を読んでいる方の中で、私よりも低いスタートラインだという方は、少ないはずです。
さすがに、友達くらいはいたでしょうし、テレビを見たこともあるはずです。
ゼロどころか、大幅なマイナスからのスタートで、私はアナウンサーを目指すことになったのです。

面接で話さなければ、アナウンサー試験に合格できる。

アナウンススクールに通いましたが、正直、話にならないくらい下手でした。
「今日の天気は晴れです」というコメントが、発音できないのです。
「今日ど天気はハデです」となってしまうのです。
毎日、このコメントだけを練 習する日々が続き、なんとか言えるようになりました。
スタートラインが低いのだから、人の3倍努力しなければダメだと思いました。
アナウンススクールも、3つ掛け持ちました。
ですが、原稿読みでさえ、あまりにも下手すぎて、話にならないレベルのままでした。

いよいよ、大学3年の終わりになり、アナウンサー試験が始まりました。
日本テレビ、TBS、テレビ朝日は、一次試験で落ちました。
逸見アナウンサーが勤めていた、第一志望のフジテレビは、書類落ちで、面接にさえ進めませんでした。
大阪の局のアナウンサー試験も、全く話になりませんでした。
そんな時に、あるアナウンサーの先輩から、啓示を受け 他のです。
「石井は、しゃべりが下手すぎる。お前は、話したら落ちると思え。だから、なるべく黙っていた方がアナウンサーに内定するはずだ。面接では、うなづいたりして、なるべく話す機会を減らした方がいい。しゃべりが下手なのがバレるからな」とアドバイスをいただいたのです。
確かに、人と話したことがないのだから、話が下手だということは、認めざるを得ません。
そこで、なるべく人と話さないようにしたら、面接で通過する確率が、本当に上がったのです。

そんな折、信越放送のアナウンサー試験がありました。
350人受験して、作文で40人まで絞り込むというエントリーシートでした。
文章であれば、今こうして70 冊以上の本を書いている作家になっているくらい、得意なので、負けるはずがありません。
こうして、350人から40人までに残りました。

1次試験は、なんと筆記試験でした。
人と話さずに勉強ばかりをしてきて、全国模試で1位を取ったこともある私が、性格が明るいアナウンサー志望者に、筆記試験で負けるはずがありません。
ここで、40人から男性8人に絞られました。

2次面接では、ほとんど口を開かず、ボロが出ないようにしていたところ、最終面接の男性3人、女性3人に残ることができました。
その年は、女性アナウンサーを採用したかったようなのですが、3人とも他のテレビ局に内定してしまったらしく、 当日、面接会場には現れませんでした。
すると、男性アナウンサー志望者のうち一人は、他のテレビ局に内定が決まっている人だったということで、残りの2人から選ぼうということになりました。
もう一人は、慶応のプロレス研究会出身でした。
すでに、信越放送には、プロレス好きの先輩アナウンサーがいたために、彼ではない人にしようということになり、消去法で、私が内定することになったのです。
27社目にしてアナウンサーに内定した瞬間でした。

諦めなければ、夢は必ず叶う。
逸見さんと同じ職業に就くという夢が、現実にものになったのです。

新人アナウンサー研修のおかげで、話ができる自分に生まれ変わった。

アナウンサーになったのはいいのですが、何と言っても、話が苦手だという自分が変わったわけではありません。
話が下手なまま、作文と筆記試験、最後は消去法で、アナウンサーに内定したからです。
たまたま、アナウンサー試験を受け続けたいたら、採用試験が自分にぴったりの試験があったので、受かることができたというだけです。

アナウンサーに内定することと、アナウンサーとして活躍することとは、全く違います。
私はアナウンサーに内定するための研究はしましたが、入社した後に、アナウンサーとして活躍するための研究は、全くしていなかったのです。

そんな中、4月1日から新人アナ ウンサー研修が始まりました。
腹式呼吸から始まり、長音、スタッカートという発声練習を行いました。
どうすれば、最短距離で喋りが上達できるのかと、学生時代は、ずっと考えていましたが、その答えは、当時は見つかりませんでした。
そんな中、50年以上の歴史があるTBS系列のアナウンス部には、「3ヶ月で、学生レベルをプロレベルに生まれ変わらせる、伝統あるメソッド」が存在したのです。

喋りのプロとして生きていくためのノウハウは、実にシンプルでした。
「発声練習を繰り返し行い、アマチュアの声ではなく、プロの声にする。そうすれば、全てが解決する」というものでした。
実際に、発声練習をすればするほど、原稿読 みのスキルも上がり、スポーツ実況のスキルもあがっていきました。
テレビ番組のリポーターも、ラジオのDJも、発声練習をすることで、上達することがわかりました。

そのカラクリは、こうです。
発声練習を繰り返すことで、プロの声に生まれ変わる。
素晴らしい声が出ることで、自信溢れる話し方になる。
自身溢れる話し方になれば、自信が溢れる人格に生まれ変わる。
他の人からも、いい声をしているだけで、「プロのアナウンサーだ」と思われるようになるので、アナウンサーとして扱ってもらえる。
声を鍛えることに、一点集中してトレーニングをすることで、原稿読みであれ、実況であれ、こなせるようになるというわけ です。
発声練習をするだけで、話し上手に生まれ変わることができたのです。

「発声練習をするだけで、プロのしゃべり手に生まれ変わる」

これが、50年以上の歴史を誇る、新人アナウンサー研修の答えだったのです。

人と話したことがなかった私でさえ、アナウンサーとして5年間勤めることができたのは、新人アナウンサー研修があったからです。
本来、新人アナウンサー研修を受けられるのは、その年にアナウンサーに内定した100人前後だけです。
ですが、新人アナウンサー研修の効果は、アナウンサーに内定したことのない、誰にでも現れます。
あなたも、新人アナウンサー研修を受けて、話し上 手に生まれ変わってみませんか?

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